
痒くない?
なんかとっても
痒くない?
いや、マヂで痒いんだけど・・・。眼が・・・。花粉症を克服したオイラでっすが、さすがに昨日の強風のせいか、無性に眼が痒いんだよ、兄弟!
さて、旧愚ブログ~新愚ブログで何度かオイラが津軽三味線を習っていたということは書いてはいるのでっすけど、今一度どういう経緯で始めたのかを振り返ってみまっす。
当時は葛飾区の奥戸という所に実家がありまっして(現在は同区の細田にありやす)、中高大と過ごしたのでありまっす。
オイラの中学校の同級生のお母さんとオイラの母親はたまたま着付け教室で一緒だった友人でありまして、その伝手でその旦那様(以降、O先生)とオイラの父親もマブダチになり、しょっちゅうこの4人で飲んでおりまっした。
その頃、O先生のご本業は不動産業だったのでっすが、趣味で始めた民謡を極め、津軽三味線はあの高橋竹山先生と並び称される名手、高橋祐次郎先生(1934-2012)のご門下の方に師事されておりまっした。(つまり、孫弟子ね。なのでオイラは曾孫弟子なんだね)
数年後、居を北小岩に移したO先生はご本業の傍ら民謡教室を開業され、オイラが高校1年生の時に父親が、その教室に入会して民謡と三味線を習い始めたのでございまっす。
当時のオイラはクラギとアコギの演奏にどっぷりとのめり込んでおりまっして、ギター教室には通ってはいなかったので大変遠回りをいたしまっしたけど、Francisco Tárrega(フランシスコ・タレガ)の、“Recuerdos de la Alhambra(アルハンブラの思い出)”や、Fernando Sor(フェルナンド・ソル)の“Variaciones sobre un tema de Mozart Op.9(モーツァルトの「魔笛」の主題による変奏曲Op.9)”なんかをバリバリと弾いておりまっしたなぁ。
で、高校2年生に進級した時、いきなり父親が
おまえも民謡教室に通わないか?
と、誘ってきたのでありまっす。
10代半ばのオイラは
民謡≒ジジババが楽しむもの
という謂れなき偏見を抱いておりまっしたので「えぇ、オイラはいいよぉ・・・」と断ったのでっすが、
津軽三味線も教えてくれるぞ!
という、甘い誘惑に反応してしまったのでありまっす。
津軽三味線≒なんだかカッコよっ!
という、これまた浅はかなイメージを抱いていたオイラは、「歌は恥ずいからやらぬけど、三味線だけ習ってみようかなぁ・・・」と、入会を決めたのでっした。1981年の春でござんしたなぁ。
んで、父親はなんと当時、50万円した津軽三味線1を買うてくれたのでありまっす。
以前書きまっしたけど、シンプルに演奏技術のみでギターと津軽三味線を比較すれば、圧倒的にギターの方がムズいっす。
レッスンでは楽譜は使用せず、先生の前に端座して先生の弾く三味線を見て、聴きながら少しづつ覚えていくという伝統的な方法が用いられておりまっした。
前述しましたとおり、演奏技術、特に左手の技術は当時のオイラとしては失礼ながら余りにも簡単で、それは一見難しそうな津軽三味線の演奏も同様でありまっして、当時最年少の門下生だったオイラでっすけど、砂が水を吸うようにあっという間に曲を覚え、津軽の曲としては“津軽じょんから節”、“津軽あいや節”、“津軽よされ節”、“津軽音頭”、“津軽おはら節”など主要な曲もあっという間に覚えてもうたのでっした。
毎年開催された発表会や、民謡協会主催の大きな大会などで歌伴や津軽三味線合奏にも参加して大いに楽しんでおりまっした。
結局、25歳くらいまで教室に通い続けまっした。
覚えた曲が100曲を超え、O先生の推薦もあって教室の名取と、民謡協会の試験でも助教師という資格を得たのでっすけど、これも以前書いたとおり(ここ)、地元で開催された高橋竹山先生の演奏会を聴きに行って衝撃を受け過ぎた結果、自分自身の弾く津軽三味線の音が嫌悪の対象でしかなくなってしまい、棹を折りまっした・・・。
絶頂期の竹山先生の演奏。
三味線を辞めて30数年を経たのでっすが、その間、一度も三味線を弾いておりまっせぬ。
なので、覚えた曲は全て忘却の彼方でありまっす・・・。マヂで一曲も弾けまっせん・・・。何ともはや情けない限りでござんす・・・。
全然関係ないっすが、冒頭の高橋竹山先生の写真をこの間書いた、“今一度、フラメンコ・ギターを始めた頃を振り返ってみる”と同様にAIでイラスト化したら、とんでもないことになっちゃたので(ぜってぇ、載せられねぇ・・・)、渋いイラスト風に変換したらいい感じにっ!

コメント