
あぁ・・・。もう間もなく梅雨になるんだねぇ・・・。いちばん苦手な季節ご到来なんだねぇ・・・。
暑いのはガキンチョの頃から苦手なんすけど、暑くても湿度が低ければまだいいのよ。でも、日本ってもうどう考えても夏季は亜熱帯へと変貌を遂げたぢゃねぇですか。
高温多湿っ!
これがダメダメなのよ・・・。オイラ・・・。
さて、今回は旧愚ブログにも書いた“されこうべ”話を2題まとめて書きまっす。1つ目はオイラが小学校1年生の時のお話しざんす。
うちの親父さんの故郷は何度か書いておりまっすが、茨城県某所でございまっす。
さて、オイラが小学校に入学した年に曾祖母が身罷りまっした。
で、家族打ち揃って茨城にお葬式のために赴いたのでございまっすが、当時は何とその地域は土葬でございまっしてね、お葬式の最終日は近所の方が総出で土葬のためのお手伝いをして下さる訳でっす。
墓所はゆっくり歩くと30分程かかるのでっすが、現在もそうですけどそこはお寺ではなく小高い丘の上にある畑地の片隅にあるのでございまっする。
当然、その町内のお墓が密集しているのでっすが、前述のとおり土葬地域なものでっすから、絵に書いたような土饅頭に卒塔婆が立っているという実にシンプルなお墓でございまっした。
で、屈強な町人の方たちによってうちの土饅頭が掘り返されるわけですが、かなり深く掘っていた記憶がござんす。
これも何回か書きまっしたが、オイラは小学生の頃は異常なほど怖がりのガキンチョでございまっしたので墓所に着いた時からソワソワしておりまっした。
で、墓穴を掘り始めて30分程すると墓掘り隊のリーダー的なおぢさんが、
はぁ~いっ!ひいお祖父ちゃんのお骨ですよぉ~。
と見得を切りつつ、集まった人々に見えるように土に塗れた“されこうべ”を持って近くまで寄って来るって寸法。んで、皆様ご想像のとおり、オイラは恐怖のあまりギャン泣きと相成りもうした・・・。
それから数年後、この地域も土葬は禁止となり火葬へと変わり、それに伴って土饅頭ではなくちゃんと墓石を建てなければならなくなったのね。
当時はオイラにとっての祖父母が健在でしたが、うちの親父さんが長男なので祖父母に代わって現在の墓石を建てたんだよね。
実はこの時に別の場所(こちらは近所のお寺)にあった古い時代の墓石もついでに移動したのでござんす。
長年風雨に晒されて墓石に刻まれた文字の判読がちょっと難しいのですが、明らかに播州郡という文字が見て取れ、名前も柴田某と刻まれておりまっす。どうやら、Luzia家のご先祖は現在の兵庫県西南部出身の武士だったらしいのでっすわ。
それが紆余曲折あって常陸国、つまり現在の茨城に移り、何があったのかは不明なのでっすが、一時期某寺に潜伏しておった事から改名したらしいのでっすが、それが現在のオイラの世を忍ぶ仮の苗字の由来になったと伝えられておりんす。人に歴史ありっ!
さて2つ目は、お肌ピチピチでイケメン面をぶら下げてブイブイ言わせていた(ほんとか?)高校生の頃のお話しでございまっす。
東京某所(木場で有名)に在住の同級生I君のお家にオイラと友人2人が遊びに行った時のこと。
当時、I君のお家には誰がどう見てもちゃきちゃきの江戸っ子の爺様がいらっして、真っ昼間からI君の部屋に集まって駄弁っているオイラたちを見ると、やおら異様に切れの良い江戸弁で
おいっ!いい若ぇ衆が真っ昼間から部屋に閉じ籠もってウダウダやってんぢゃあねぇっ!銭やるから吉原遊廓にでも行って男を磨いてきやあがれっ!
と時代錯誤が甚だしい叱咤をされたっけ。それから数年後・・・。
80代後半で老衰のため大往生を遂げた江戸っ子爺ちゃん。後日、I君から火葬場での顛末を聞いてクリビツテンギョウっ!
そろそろお骨なったであろうという頃合いに斎場の担当者が血相を変えてやって来て、開口一番
と、とにかく皆様。一緒にいらしてくだっさいっ!
と言うので火葬場に向かうと、そこには学校の理科室にある骨格標本と見紛うばかりのお骨が横たわっていたのだそうでっす・・・。
担当者の方曰く、
私は長年、この仕事をしておりますが、
こんな見事はお骨を拝見するのは初めてですっ!
と頬を紅潮させながら熱弁を振るったとの事。いやはや、こんな事ってあるのね。
この江戸っ子爺ちゃん。お若い頃から肉はあまり食べず、とりわけ魚が大好物でおやつにも煮干しをバリバリ食べていたという筋金入りのカルシウマー(?)だったらしい。
カルシウムは偉大である。
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