
今回のお話は旧愚ブログでも書いたことなのですが、ワタクシにとっては未だに忘れることの出来ない素晴らしい恩師との出会いの思い出ということもありまして、今一度書きたいと思います。
さて、ワタクシが幼少の砌は、現在のワタクシからは想像だに出来ぬほど大人しくて引っ込み思案な子供でした。
また、3歳頃までは身体がとても病弱で、母親によると1年365日のうち300日くらい病院に通っていたそうです。
生後何ヶ月かの頃、父親が初めての子供ということもあって舞い上がり、若干風邪っぴきだったワタクシを様々な場所に引き回した結果、重度の気管支炎になり、それが原因で気管支が弱くなってしまったのです。
ですので、ちょっとしたことで直ぐに風邪をひいたり、軽度の気管支炎になるような子供でした。
それが幼稚園に通うようになった途端、急激に健康優良児へと変貌を遂げ、無事に昭和46年(1971年)、葛飾区立奥戸小学校へご入学と相成りました。
ちなみに奥戸小学校は明治36年(1903年)創立でありまして、今年で開校121年目となかなか古い歴史を持つ小学校でございます。
で、ワタクシは1年1組だったのでっすが、担任の先生はかなりご高齢の女性の先生でした。
恐らく、1年生は幼稚園から小学校へ上がったばかりの子供たちですから、百戦錬磨のベテランの先生が担任になられるということが通例だったのかと思われます。
旧愚ブログではY先生とイニシャルでお呼びいたしましたが、Y先生は残念ながら、どう考えても何十年も前に身罷れていらっしゃると思いまっすので1、今回は実名でお書きいたします。
山下康子先生は大変小柄な先生でしたが、子供のワタクシたちから見てもある意味、異様な迫力がある風貌でございました。
若干太り肉&御髪は白髪七三分け&後ろ髪は常に刈り上げていらっしゃいまして、後ろからお見かけすると完全に男性の先生にしか見えませんでした。
最近は先生による体罰はご法度のようですが、ワタクシの時代は悪いことをすれば親はもちろん、近所のオジさん、オバさん、学校の先生もケツを叩くくらいの体罰は当たり前でございました。
それでは山下先生はどうだったか?
有無を言わせず男女関係なく
基本、ビンタ!
でした・・・。
今なら大問題になるのかもしれまっせんけど、当時は親が「山下先生、うちの子が申し訳ございませんでした!ご指導ありがとうございました!」と、逆に御礼を言ったものです。
山下先生は他の先生たちや親たちも一目置く貫禄があり、怒ると大変恐い先生ではありましたが、普段は御仏のようにお優しい先生でありました。
さてさて、前述したように当時のワタクシは大人しくて引っ込み思案な子でしたので、親からも滅多に怒られた事がなく2、自分で言うのもなんですが、総じて手のかからない良い子だったと思います。
普段、山下先生はワタクシの下の名前を使って◯ちゃんと呼んで下さっておりましたが、ある日の昼休みに同級生のO君と校庭にあった雲梯で遊んでいたのですが、

普通に遊ぶのに飽きて、エッチラホッチラと雲梯の上に登り、且つ、立って歩くという危険な遊びをしていると、遥か彼方の職員室から
バカモンっ!何をしているっ!早く雲梯から降りろっ!
と、爆音でワタクシたちの名字を呼び捨てで叫びつつ、鬼の形相でこちらに向かって走って来られるのでした。
たちまちワタクシとO君は蒼くなり、雲梯から降りてブルブル震えて立ちすくんでいると、間髪入れずビンタが飛んできました。・・・。
こんな危ない事は二度としないことっ!わかったかっ!
と、一喝されました。
いやはや、本当にあの時はあまりにも怖くて号泣いたしました・・・。
その時の光景、頬の痺れるような痛み、これまで見たことがないくらい恐ろしい山下先生のお顔は昨日の事のようにありありと思い出せます。
普段がお優しいだけに、そのギャップは凄まじいものがありましたが、万が一、落下して骨折をしたり、運が悪ければ死に至るかもしれない危険な行為をしたわけですから、先生が怒るのは当たり前の話です。
後にも先にも山下先生に烈火の如く叱られたのはこれ一回きりであります。
その後、無事に2年生へと進級したのですが、山下先生は引き続き1年1組を担当され、ワタクシが3年生へ進級すると同時に定年退職なされました。
つまり、山下先生とワタクシはたった一年のお付き合いで終わったわけです。
それから更に数年経ち、無事に中学校へと進級した年の暮にふと、
山下先生はお元気でいらっしゃるかなぁ?
と、思ったワタクシは小学1年生の時に先生からいただいた年賀状を探し出し、6年振りにダメ元で年賀状をお出ししたのです。
過日。
なんと、山下先生から年賀状が届きました。
そして、その文面を読んでワタクシは新年早々、大変感動し、そして、思わず涙したのであります。
なぜなら、山下先生は年賀状の文面でワタクシのことを当時呼んで下さったとおり
◯ちゃん
と、書いておられたからです。
これがどれほど凄いことか、お分かりでしょうか?
山下先生は定年退職なされるまでの間にどれだけたくさんの子どもたちと出会い、そして、お別れの経験をされてきたのか?間違いなくその数は数千人に上るはずなのです。
そんな数千人の中の一人であるワタクシとは、6年前に1年だけ先生と生徒としての関係があっただけなのに、当時の呼び方でワタクシを呼んで下さり、且つ、「◯ちゃんは優しくて良い子でしたね」とも書いて下さり、ここにきて“たいへんよくできました”とハンコをいただいたような気持ちになり、思わず胸が一杯になってしまいました。
実はその次の年も年賀状をお出ししたのですが、“あて所に尋ねあたりません”として戻って来てしまいました・・・。
引っ越されたのか、それとも・・・。
半世紀以上経った今でも山下先生のことは忘れられません。
【追記】
もうお一人、小学3年生から6年生まで担任をして下さったS先生も、ワタクシにとっては決して忘れることが出来ない素晴らしき恩師でございます。90歳を超えた現在もお元気でいらっしゃいます。いつまでもご壮健でありますように。
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