
以前もチラっと書いた気がするのでっすが、オイラは自他ともに認める“活字中毒”でっす。
この世から“活字”が完全消滅したら、かなりの確率で悶◯すると思ふ・・・。
同様の理由で“楽譜を読む”という行為もオイラにとっては至上の喜びでありまっして、楽譜がこの世から消滅したらやはり憤◯すると思ふ・・・。
さて、オイラの“採譜”、つまり“耳コピ”に関しての遍歴については以前書きまっしたが(ここ)、オイラの場合、必要に迫られて仕方なくやり始めたというのが本音でありまっして、作業自体はノリノリの時は楽しいっちゃ楽しいでっすが、実際はかなりメンドイっす・・・。
クラシック音楽の場合は基本的に作曲者による楽譜が出版されることが多いのでっすけど、未出版で今後も出版される見込みが無く、でも、弾いてみたいんだよぉ~っ!って場合は採譜をするしかない訳で、フラメンコ・ギターの場合は基本的に演奏者が楽譜を作成するっていうことはまず無く、てゆ~か、仮に楽譜を書いたとしても即興やアドリブでどんどん変わっちゃうのであんまり意味がない訳で、となれば、誰々のアルバムのあの曲を弾きてぇっと思った場合、やはり最終的には採譜をせねばならぬ。
世に“完全コピー楽譜”と謳われた楽譜が出版されることがございまっすが、本当にそれらは“完全コピー楽譜”なのだろうか?と、思ったことはござりませんか?
実際に採譜をしたご経験がある方なら多分、
そんなものはあり得ねぇ・・・。
と思わるるに違いなかろ。
こんな事を書くと元も子もないっすけど、クラシック音楽の楽譜も楽譜はあくまで“音”という不可視なものを音符という記号で可視化したものであって、更に音符以外の様々な表記を用いて可能な限り、つまり不完全な形で作曲者が表現したい事をデータ化しておるのだと思ふのでありまっす。
でっすので、元々楽譜の無い曲を採譜するっていう行為は仮に音は完全に拾えたとしても、曲のニュアンス(リズム、歌いまわし等)までもを実際に演奏者が録音やライブでどんな思いや感覚を抱きながら演奏しておったのか?、という部分は第三者には全く分からない訳で、下手したら本人でもわからない事もあるでせう。
クラシックにしてもフラメンコにしても稀に曲のバックボーンが作者によって語られる事がありまっすが、これは第三者が演奏する場合にとって大変貴重な示唆でありまっして、不完全な楽譜の補遺として大いに役立つ事がございまっする。
んで、オイラが“採譜”という行為を試みる場合、この愚ブログで載せる譜例はそこまでは考えず、“多分、こういう音で弾かれている(だろう・・・)”という実に不完全でシンプルな楽譜でありまっす。
が、将来的に出版をするぜっ!と考えた場合はどうでありませう?
オイラのようなヘタレでも、採譜の究極目標としては演奏者の“息遣い”辺りまでをも譜面化したいと思いまっすが、仮にそれが可能だったとしたら恐らくそうして書かれた楽譜は
煩雑過ぎて読めねぇ・・・。
って事に成りかねぬ・・・。ムズいなぁ・・・。
故にどんなに“完全コピー楽譜”と謳っても、実情は“不完全楽譜”なのだと思ふのでありまっす。
いや、そもそも“完全な楽譜”自体がこの世には存在しないのかも知れぬ。つ~か、完全なるものを求め過ぎること自体、曲がない願望かも・・・。(音楽だけに・・・)
詰まる所、その不完全な部分は既成の楽譜を見て演奏、もしくは自身が採譜をしたもので演奏するプレイヤーのセンスによってしか補う事が出来んのでっすよね。
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